時代物のドラマは火事シーンから始まるとヒットするという伝説がありますが、明治時代の銀座のドラマを作るとしたらやっぱり火事シーンから始まるでしょう。
銀座は江戸時代から呉服店などで賑わった街でしたが、明治2年(1869年)と明治5年(1872年)に2度の火災が起こってしまいました。
特に「銀座大火」と呼ばれる大火災は、銀座一円が焼失するという大規模なもので、銀座の風景は一変してしまいました。
燃えない都市『銀座』
そのため銀座は、大規模な区画整理がされ、新たに生まれ変わることになりました。
この政策は、火事の多かった東京を不燃都市化すること、また同年秋に開業予定だった横浜〜東京間を結ぶ鉄道の終点・新橋駅と、当時の東日本経済の中心地であった日本橋の間に位置する銀座を文明開化の象徴的な街にしたい、との思惑があったとされています。
モデルとなったのは街並み、ロンドンのリージェント・ストリートで、街路樹(当初は松・桜・もみじ)やガス燈、アーケード、ガス灯の設置、鉄道馬車の開通、西洋料理店や勧工場(かんこうば)の開店など先進的な街として発展していきました。
さらに、それまでの街区スケールをもとに八間、五間という道路が整えられ、きれいな碁盤の目に整えられました。これが現在の銀座の街区の基礎となっていることは言うまでもありません。
こうして1873年、銀座通りから始まり、4年後には全街区の建設が完了しました。
生まれ変わった銀座の問題点
煉瓦家屋はジョージアン様式というスタイルで建設されてゆきました。二階に張り出したバルコニーを円い列柱が支え、バルコニーの下には歩廊があるというもので、1丁目から順につくられていきました。当時の建物価格としては大変な高額だったものの、煉瓦の質は劣悪で湿気がひどく、商品がすぐにだめになるような事態が頻出しました。そのため、できた当初は空き家だらけの状態だったようです。
けれど、煉瓦家屋の払い下げ価格は高価なうえに、支払い条件が厳しかったため、もともといた住人達は銀座に戻ることができませんでした。
そのかわり、他の土地で成功した商人たちが銀座の表通りで商売を始めました。現在、銀座の老舗とされている店の多くは、一部を除き、この時以降に進出してきた店ということになります。
煉瓦街最大となる建物が1873(明治6年)に竣工、江戸時代からの両替商・呉服商「島田組」の「恵比寿屋」となりましたが、翌々年に倒産。1877(明治10)年、この建物に、「東京日日新聞」(「毎日新聞」の前身の一つ)を発行する「日報社」が移転してきました。
銀座に新聞社に続いて雑誌社、関連する印刷所、広告会社などが進出し、銀座は一大情報発信基地でもあありました。
銀座は最先端のハイカラな街に
横浜と新橋をつなぐ、日本初の鉄道ができたのは明治5年のことです。
新橋ステーションの駅前商店街ともいえる銀座には、西欧からの輸入商品や新しい商品を扱う商人たちが次々と店をひらきました。洋食屋、パン屋、鞄屋、牛鍋屋、時計商、西洋家具店、洋服店などなど。
これら進取の気性に富んだ商人たちは店先にショーウィンドウを設け、江戸以前の座売りと違って、客が履物をはいたまま店内に気楽に入って商品を眺めることができるよう工夫をし、新しい商売の方法を切り開いていきました。
銀座は西欧風の街並みそのものを眺めて楽しんだり、ウィンドウショッピングを楽しむ街、すなわち、のちに「銀ぶら」と呼ばれる街歩きができる街となっていきました。
出典:wikipedia